化学療法の最も困難な副作用である神経障害を防ぐ

キャンサーリサーチUK

数年前の夏、Andreaはビーチサンダルを失くした。

靴を置き忘れることは誰にでもあるが、Andreaはサンダルを履いてロンドンの舗道を歩いていただけだった。サンダルがなくなっていることにAndreaは気づかなかった。

それから、物を落とすようにもなった。

「飲み物を持つときにかける力が感じられませんでした。飲み物が私の手をすり抜けていくことがかなりの頻度でありました」

コップが床に叩きつけられて粉々になったとき、そのコップはAndreaがしっかりつかんでおくのに四苦八苦するようなものには見えなかった。

Andreaは大腸がんを患う若い母親で、娘の髪を整えようとしながら自分の死と向き合っていた。そして、このような症状は大腸がんが原因ではなかった。彼女から体を奪っているのは治療だった。

「がんの診断を受けて、子供のために強くあろうとし、家族に心配をかけないようにしようとしている時に、1週間で3度目のコップを割るという些細なことだけでも、非常に打ちのめされてしまいます」とAndreaは語る。

「よく突然泣き出したものでした。それを見ている人は、『なぜ過剰に反応しているのか』と思ったでしょうね。でも、別のことで泣いたのであって、がんとは何の関係もありません。私の命を救おうとしているものによって一連の問題が私に起きており、私の生活を悪化させているのです」

何が起きていたのか?

Andreaが対処していた、そして今でもある程度まで対処している問題は、化学療法誘発性末梢神経障害(CIPN、化学療法による神経障害)と呼ばれる神経障害の一種である。

神経障害の症状は、軽いしびれから、手や足の感覚を失ったり、手足の自由が利かなくなったりするものまでさまざまである。がん治療が起因の場合もあるが、治療方法がない。

がんリサーチUKは、世界一の科学者たちがこの状況を変えるための支援をしている。

化学療法でしびれが起きるのはなぜ?

化学療法はがん細胞を死滅させるのに特に優れているが、健康な細胞にも害を及ぼすことがある。その中には、脳や脊髄(中枢神経系)と体の他の部位との間で情報伝達をする末梢神経細胞も含まれる。末梢神経細胞が損傷を受けると、情報の通過が困難となる。

手や下肢など情報の到達先が遠い場合、問題は深刻である。

Andreaの末梢神経障害は足の裏のしびれから始まった。そして、その感覚は手へと上方に移動した。

「腕の上で寝ると、すこしビリビリしますよね。それが起きたと思いました。でも、本当に手に負えなくなるまで徐々に悪化しました。無視できるものではありません。寝ているとき、歩いているとき、座っているとき、絶えずしびれています」

そして、暑い夏にもかかわらず、Andreaの足は氷のように冷たくなり、やがて、足の感覚が全くなくなってきた。

足の着く位置が分からないと歩行も困難なため、Andreaはどこへ行くにも車で行くしかなかった。運転はあまり楽ではなかった。重い冬用ブーツに足が固定されていなければ、足先がペダルの上に乗らなかっただろう。

化学療法8サイクル目の後、Andreaの医師はプラチナ製剤のオキサリプラチンの投与を中止せざるを得なかった。オキサリプラチンは、Andreaのがん縮小に役立っていたが、末梢神経障害を引き起こす可能性が高い薬剤のひとつであり、永久的で生活を一変させる神経障害という危険な状態にさらすため、最後の4サイクルの治療にオキサリプラチンは使用できなかった。
 
化学療法誘発性末梢神経障害はなぜ問題なのか?

現在、Andreaはがんではない。

しかしながら、副作用でがん治療が中断すると、命を縮める場合もある。

University College London(ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン)のAlison Lloyd教授が明言しているとおり、「神経障害は化学療法の大きな制限要因の一つである」。化学療法薬剤により神経障害が起き始めると、医師がその悪化を食い止めることのできる唯一の方法はその薬剤を取り除くことである。

この問題を悪化させているのは、化学療法による神経障害の発症リスクのある人を確認するための検査すらできないという事実である。医師と患者にできることは、症状が現れるかどうか様子を見るのみである。このように不確実なため、治療の決定がより困難となる。

「このような毒性に苦しむ患者や重症化の程度を予測するための特定可能なバイオマーカー、すなわち体内の兆候はありません」と25年間、頻繁に神経障害を引き起こす薬剤を使用して頭頸部がんの治療に携わるLillian Siu教授は語る。「『治療を受けてみて、何が起きるか様子を見る』という以上の情報を提供することはできず、このようなやり方は、誰にとっても必ずしも魅力があるというわけではありません」

状況を改善するためには、化学療法薬剤が神経細胞にどのような影響を与えるのかについて詳細を知る必要がある。それがLloyd教授の専門分野である。Lloyd教授の研究により体の中のほとんど知られていないシステムに注目が集まった。その研究により、化学療法による神経障害を予測し、治療し、さらに予防する方法を医師に提供することが可能となる。

Lloyd教授の研究はがんリサーチUKおよびMedical Research Council(イギリス医学研究審議会)より助成を受けている。

血液、脳、神経

脳や脊髄の神経細胞が化学療法とどのように相互作用するか、または一般的に、どのように相互作用しないかについて多くのことがすでに分かっている。血液脳関門(BBB)と呼ばれる特殊な保護システムにより薬剤の多くが神経細胞へ到達することを阻止される。そのため脳腫瘍の治療が困難になるが、脳や中枢神経系を毒性のある副作用から守ることが可能となる。

Andreaも経験したブレインフォグや「ケモブレイン(chemo brain)」のような神経毒性は、非常に困難な問題だが、BBBがなければさらに悪化していた。

体の他の部位は状況が少し異なる。正確にどのように異なるのか長い間謎であった。BBBについて詳細を知る科学者は多い。Lloyd教授はBBBとそれほど遠くない親戚である血液神経関門について何かを発見した数少ない人物である。

血液神経関門はBBBと同様の作用をし、血液中の物質が敏感な末梢神経に到達するのを阻止する。これに全く注目が集まっていない。

「初めに血液脳関門の会合に出席して、『血液神経関門を理解しようと試みている』と言った際に、『血液神経関門というものがあるのですか』という反応がほとんどでした」とLloyd教授は振り返る。
 
化学療法誘発性末梢神経障害について、どのようなことが分かってきたのか?

Lloyd教授の慣れた説明にあるように、血液神経関門はやや確実でないことが主な相違点である。これは化学療法薬剤が通過して末梢神経障害を引き起こす仕組みを説明するのに役立つ可能性がある。

また、血液神経関門が有望な研究対象となる可能性もある。誰もが目をそらしている間にLloyd教授のチームが画期的な発見をした。血液神経関門を支える細胞の1つにあるシグナルを活性化するだけで、血液神経関門を開閉させる方法を発見した。

脳の中で同様のことを何とかやってみようと試みた人はこれまで誰もいなかった。

「このような関門を破壊しなければならないという考えが常にありました」とLloyd教授は説明する。「しかし、そうすると害を及ぼしていたでしょう。たった短時間だけでも、それに逆らう手助けをして、副作用の可能性を低下させることを示しました」

一方で、血液神経関門を開くことが、神経系から発生したり、神経系に転移したりするがんに新種の抗がん剤を送り込むための重要な一歩となる。それから、がんの他に神経細胞の障害やハンチントン病などの脳疾患の治療にも役立つ可能性がある。さらに、血液脳関門を開き、脳腫瘍の治療法を改善するための基礎にさえなる可能性もある。

同時に、血液神経関門を強化または閉じる方法を理解することで、化学療法誘発性末梢神経障害を防止することが可能となる。
 
医師は末梢神経障害にどう対処するか

これがどれほど重要なことなのかSiu教授は知っている。現在、末梢神経障害の検査がないため、Siu教授のような医師ができることは、患者が自分の症状について語ることを促すだけである。

「スキャンや血液検査で他の問題を観察することはできますが、すべての患者の神経細胞に何が起こっているのかを推測することはできません」とSiu教授は説明する。「どう感じるのかを伝えてくれるには患者に頼るしかありません」

「通院のたびにその話題を取り上げます。そして、症状が現れるまで待たないようにしています。それは時々遅効性後遺症があるからです。中等度の毒性が出るのを待ってから何かをすると、次の治療サイクルまでに重症化する可能性があります」

このような議論は症状よりも切実となっている。「何を」「どこで」「いつ」と同じくらい、「誰が」が重要であることをSiu教授は学んだ。

私たちは手や足で世界に根付き、お互いを結びつけることができる。症状が重症化しても治療の継続を選択する人もいるが、長期にわたる末梢神経障害のある生活なんて想像できないという人もいる。

「私はコンサートピアニストを治療したことがありますが、ピアニストは指の動きに非常に敏感です」とSiu教授は語る。「体の最も大事な部位に影響する可能性があるため、このような人と、命を救う治療を行わずに代替医療を行うか、有効な薬剤を早期に中止する決断を互いに下すことがあります」

「最適な薬剤であると分かっていても、リスクが高いと一緒に判断したため、投与できなかったり、中止せざるを得なかったりすることがあります」

「常にこれは非常に厳しい決断です。治療反応を実感している患者がいて、その反応がサイクルを重ねるごとに深まっているように見えるのに、突然、中止せざるを得なくなることがあります。患者の寿命を左右する間違った決断はしたくありません。しかし同時に、治療を継続すると神経障害が悪化の一途をたどるだけだと伝えなければなりません」

「時間を巻き戻すことはできません。われわれにできるのは時間に癒してもらうだけです。多少快方に向かいますが、その速度は速くありません。また、完全回復ではありません」
 
毒性への挑戦

Siu教授は、カナダのトロントの上級腫瘍医、臨床試験責任者、医学部教授であると同時にキャンサー・グランド・チャレンジ科学委員会(Cancer Grand Challenges Scientific Committee)の新メンバーの一人でもある。

キャンサーリサーチUKが2020年に米国国立がん研究所と共同で設立した世界的な資金調達構想「キャンサー・グランド・チャレンジ(Cancer Grand Challenges)」は、がん研究の最大の課題に挑むために世界中の研究チームを取りまとめている。化学療法誘発性神経毒性および神経障害は、今年3月に発表された9つの新しい課題の1つである。

化学療法誘発性末梢神経障害などの課題の背後にある過程について詳細に解明し、最終的には、その予防と治療方法の理解に貢献するビジョンと専門知識を持つチームは、2023年6月22日までに、最大2000万ポンド(約25億円)の資金を申請する必要がある。

「われわれは非常に多くのことについてとても深い知識を持っており、末梢神経障害は克服できない課題とは思われません」とSiu教授は語る。「患者にとって非常に困難な疾患であり、それを克服するための知識が今世紀にあるので、キャンサー・グランド・チャレンジ(Cancer Grand Challenges)にふさわしい課題です。まだその時ではなかったのであれば、今がその時でしょう」

「Alison教授のような生物学者から得た知識を十分に活用できていなかったかもしれません。われわれは血液神経関門についてあまり話をしません。活用していなかった見識がそこにあるのかもしれません」
 
妥協することなく、より良い治療を

これらの見識が積み重なっている。最新の科学論文でLloyd教授のチームはBBBに関する数十年にわたる研究の根拠を取り上げた。

「関与する全種類の細胞、どのように相互作用するのか、どのように調整されるのか、なぜそれが関門なのかという血液神経関門の構造と調節を定義しました。開発に10年以上の期間を要しましたが、関門がどのように開閉されるかを確認することが可能になるモデルが得られました」

ここから、科学者たちは、がん治療の最も体を衰弱させる副作用のいくつかに取り組み、化学療法をすべての人にとってより良い選択肢とすることが可能になる。改善のために必要な資金となぜ重要なのかについての知識を用いる準備ができている。

「化学療法に対して愛憎関係のようなものがあります」とAndreaは語る。「化学療法は命を救えると同時に、さまざまな問題を引き起こす場合があることに異論はありません。そのため化学療法を望まない人もおり、彼らはむしろ生活の質を守るほうを望むことを私は理解し、尊重します」

キャンサーリサーチUKは、Andreaと彼女のような人たちがどのような治療法を選択しようとも、共に歩んでいます。われわれの責務は、状況を一転させる手助けをすることです。がんを克服することは、確実に一人でも多くの人が最高の品質の治療を受けられると同時に自らが選択した方法で人生を送ることである。

「化学療法にこのような副作用がなかったら、もっと多くの人が化学療法を喜んで受け入れるでしょうね」とAndreaは語る。そして、治療できる人が多ければ多いほど、われわれはより多くの時間を与えることができる。

Tim
 

  • 監訳 齋藤千恵子(薬学・毒性学/ロズウェルパークがん研究所 病理学部)
  • 翻訳担当者 松長愛美
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  • 原文掲載日 2023/05/22

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