妊娠中のがん治療―現状と今後
2020年の秋、妊娠13週のLeticia Ramos-Mateo氏のもとに、「がんが再発した」という思わしくない知らせが届いた。
彼女は3年前、ホジキンリンパ腫の治療を受けていたが、治療が終了して以来、病気の徴候はみられなかった。しかし31歳になり、妊娠初期の終わりである現在、再発に直面していた。
地元ニュージャージー州の病院では、上腹部のバレーボール大の腫瘤を含む複数の腫瘍が発見されていた。「助からないかもしれないと心配になりました」と妊娠を継続することをきめたLeticia Ramos-Mateo氏は振り返った。
しかし彼女は生き延びて、最近、息子の1歳の誕生日を祝った。息子は、母親が妊娠中に受けた治療による障害の徴候をまったくみせずに生まれた。
「息子は健康で、よくおしゃべりします。小柄だけど、私も小柄なので心配はしていません」と話した。
彼女は、免疫チェックポイント阻害薬の1種である免疫療法薬ニボルマブ(オプジーボ)で治療を受けた。この薬は、免疫チェックポイントと呼ばれるタンパク質を阻害することで、免疫細胞ががん細胞を攻撃する能力を回復させるものだ。
ニボルマブはホジキンリンパ腫の治療薬として承認されている。しかし、彼女は意図的に免疫療法を受けた最初のリンパ腫の妊婦であったかもしれない。
上に述べたように、Leticia Ramos-Mateo氏の経過はハッピーエンドだが、彼女の経験は、標的治療薬や免疫療法薬などの新しい治療法を用いた妊娠中のがん治療についてはほとんどわかっていないということを浮き彫りにしていると、Andrew Evens医師(経営学修士、科学修士。ニュージャージー州ラトガースがん研究所)は話す。
リンパ腫の妊婦の治療を専門とするEvens医師は、地元の病院から妊娠19週で彼女の治療を引き継ぎ、多くの専門分野にわたるチームを主導した。
特有の脆弱な患者集団に焦点をあてる
研究チームは最近、Leticia Ramos-Mateo氏の治療について述べたケーススタディをAmerican Journal of Hematology誌に発表した。Evens医師が昨年の学会でこの研究を発表した後、数人の医師が妊娠中のがん患者の治療法についてアドバイスを求め、彼に連絡してきた。
妊婦の約1,000人に1人ががんと診断されている。リンパ腫は、妊娠中に最も多く発生するがんの一つである。
「妊娠中のがんは、報告されたり話題になったりしないためか、私たちが思っている以上に多いのかもしれません。発表されたデータが少ないとはいえ、エビデンスに基づいた医療を実践してほしいと思い、私たちはこの知見を共有しています」とEvens医師は述べた。
妊婦は新薬の臨床試験から除外され、毒性があるかもしれない治療に妊婦や発育中の胎児がさらされないように配慮されている。その結果、多くの新しいがん治療が妊娠中に安全で効果的であるかどうかは誰にもわからない。
「妊婦のがんに対する標準的な治療法を評価するため、国家的な取り組みが必要です。私たちの新しい症例報告は、独特の脆弱な患者集団を助ける必要性に光を当てることができます」と同医師は述べた。
妊娠中の免疫療法やがんに関する疑問をクラウドソーシングで解決
Leticia Ramos-Mateo氏の経験は、妊娠中のがん患者に対する治療法の選択肢を広げる必要性を物語っている。彼女は妊娠19週から、妊娠初期(妊娠13週まで)以降の妊婦のがん治療に用いられてきた化学療法レジメンを受けた。
腫瘍による激しい腹痛などの症状は、一時的に改善した。しかし、妊娠26週には、胎児の近くにある腫瘍を含む複数の腫瘍が、抑制がきかず増大した。Evens医師は、彼女の余命は数週間と推定した。
ニボルマブは多くのホジキンリンパ腫患者に非常に有効であるとEvens医師は指摘する。「私たちはニボルマブが効くと思っていましたが、母親と胎児にとって安全であるという確信が欲しかったのです」と同博士は述べた。
再発ホジキンリンパ腫の妊婦に対する免疫療法の安全性を証明する研究は発表されていない。また、あらゆる種類のがんに関して、妊婦に免疫療法薬を使用したことを報告した症例報告はほとんどなかった。
科学文献を検討した後、Evens医師はツイッターにメッセージを投稿し、医療関係者で妊娠中に免疫チェックポイント阻害薬を使用した経験のある人がいるかを尋ねた。すると、有益な回答が返ってきた。
NCIのがん治療評価プログラムのElad Sharon医師(公衆衛生修士)は、一連の症例から得た未発表のデータがあると答えた。Evens医師とは面識がなかったが、2人は会話を交わし、共同研究につながった。
Sharon医師のチームは、NCI支援の臨床試験で、免疫チェックポイント阻害薬の服用中に予期せず妊娠した9人の報告を確認した。このうち7人は妊娠を継続することを決め、全員が健康な子どもを出産した。
「この7人の妊娠は良い結果を得ました。私たちは、この事例が科学的に興味深く、公衆衛生にとって、少なくとも、妊娠中にがんを経験した女性にとっては重要である可能性があると考えました」とSharon博士は述べた。
このような裏付けが少ない情報とともに、同様の結果を示すいくつかの症例報告から、Evens医師らは、ニボルマブがLeticia Ramos-Mateo氏の治療に役立つと確信した。リスクの可能性はあったが、彼女はこの治療法を試すことに同意した。
臍帯血の免疫療法薬の血中濃度検査
「ニボルマブは予想以上に効果がありました。患者の腫瘍は徐々になくなり完全寛解に至り、元気な男の子を出産しました」とEvens医師は述べた。
Leticia Ramos-Mateo氏は出産後数週間で幹細胞移植を受け、がんは寛解状態を保っている。
彼女は、リンパ腫の妊婦として初めて免疫チェックポイント阻害薬を意図的に投与されたことに加え、妊娠37週にニボルマブを最終投与されている。妊娠33週を過ぎて免疫チェックポイント阻害薬を投与された妊婦の報告は初めてだった。
また彼女は、研究目的で臍帯や胎盤を含む血液検体の採取に同意していた。NCIのがん研究センターのチームは、おそらく初めて、妊娠中の胎盤と臍帯の免疫療法薬の血中濃度を記録した。
「この患者さんの治療からできるだけ多くのことを学び、次の患者さんへの対応に役立てたいと考えていました」とSharon医師は述べた。
ひとつは、ニボルマブが胎児に到達しているかどうかという問題であった。研究者らは胎児から血液を採取しなかったが、臍帯血からニボルマブが検出されており、薬が胎児に到達したことになると、Sharon医師は述べている。
「私たちは、薬物による胎児への悪影響は認めませんでした。今、問題なのは、どのような要因が発達中の胎児に害を及ぼす可能性が高いのか、何に注意すべきなのか、ということです。それが今後の研究の焦点になるでしょう」とSharon博士は述べた。
妊娠中のがん患者に関するレジストリの構築
「妊娠中にがんを治療するという決断は、胎児を薬にさらすリスクと、胎児を薬にさらさない場合の母親の未治療の病気のリスクを比較検討することになります」と、ハイリスク妊娠を専門とするElyce Cardonick医師(産科医、クーパー大学ヘルスケア)は述べた。
医師たちの間では、がんの妊婦が出産するまで治療を遅らせることができない場合、一般的に妊娠中期および妊娠後期の化学療法は安全であるという認識が広まってきていると、同医師は続けた。
「しかし、妊娠早期の妊婦が非常に侵攻性の強い腫瘍を有している場合、この時期には侵襲性の強い化学療法を使用できないので、残念ながら妊娠の中止を検討しなければならないかもしれません」とCardonick医師は付け加えた。(化学療法は胎児の発育中の臓器に影響を与える可能性があるため、最初の3カ月間は使用しない。)
Cardonick医師は、妊娠中にがんと診断された患者の登録を行っている。1997年に開始されたこのデータベースは、現在約450人の女性とその子どもの治療と転帰に関する情報を保持している。
この登録には、旧世代の薬で治療された妊婦に関する豊富な情報が含まれている。「新薬の場合、最初からやり直すことになります。化学療法と同じように、新薬についても1例ずつ情報を集めなければなりません」とCardonick医師は述べた。
しかし、Cardonick医師はこの挑戦を歓迎するという。新薬は、化学療法に効果がない悪性黒色腫(メラノーマ)などの特定のがんを持つ妊婦に希望を与えるかもしれない。
免疫療法は、進行性メラノーマ患者の治療を一変させるのに役立っている。さらに、より多くの研究が必要ではあるが、免疫療法が妊娠中の患者にも有効であることを示すエビデンスもいくつか存在している。
「新薬が承認されるまでは、メラノーマの妊婦さんを手術以外で助けることはできませんでした。非常に悲しいことでした。しかし、今は免疫療法によって、彼女らに提供できるものを手に入れたのです。これは素晴らしいことです」とCardonick医師は述べた。
妊娠中の免疫療法に関する情報提供の必要性が高まる
がん治療に免疫療法が広く用いられるようになり、妊婦に対する免疫療法薬の使用についての情報の必要性が高まったと、妊娠中のがんを研究しているFrédéric Amant医学博士(ベルギー、ルーベン大学)は述べている。
患者には妊娠が判明した時点で免疫療法を中止する傾向があるため、妊娠中の免疫療法の使用についてわかっていることのほとんどが妊娠初期の数カ月の患者から得られたものであったと、Amant氏は指摘した。
子宮内でがん治療にさらされた子どもとその母親に関する長期的な研究は、この分野の優先事項であるべきだと同氏は続けた。
Amant氏は、妊娠中にがんを発症した女性とその子どもに関する情報を世界中から集めている研究組織「がん、不妊、妊娠に関する国際ネットワーク( International Network on Cancer, Infertility and Pregnancy : INCIP)」を主導している。2015年、INCIPは、子宮内での化学療法に曝露しても、出生後の発達障害や認知障害のリスクは上昇しないことを報告した。
妊娠中のがん治療について疑問を持つ医師や妊婦のためのガイダンスやサポートが用意されている。たとえば、がん、不妊、妊娠に関する諮問委員会は、がんと診断された妊婦の医療と妊孕性温存に関する専門的なアドバイスを医師に提供している。
また、「Hope for Two: The Pregnant with Cancer Network」という組織は、がんにかかった妊婦と、妊娠中に同じ種類のがんにかかった経験のある女性たちを結びつけている。
妊婦を含めた臨床試験に関する疑問点の探索
妊婦のがん治療を改善するためには、新しい研究、特に血液などの生体試料を採取する研究が必要であるというのが専門家の一致した意見である。
そのような研究は、妊娠がさまざまな種類のがんの生物学にどのように影響するかを含め、妊娠中のがん治療のあらゆる側面に新たな光を当てることができるだろう。
良かれと思ったことではあるが、妊婦をがん治療の臨床試験に参加させないというやり方は、意図しない結果を招いてしまったとSharon医師は言う。
「臨床試験から妊婦を除外することで、私たちは次の妊婦の治療に役立つことを何も学べなくなってしまっています。そして、それはおそらく、私たちの医学研究を行う上での足りない部分なのです」とSharon医師は述べた。
その解決策の一つは、「専用の観察試験」を実施することである、と同医師は説明した。このような試験では、妊娠中で治療を受けるしか選択肢がないがん患者をモニターし、新薬の効果とリスクを評価することができる。「この試験により、将来同じ状況に陥った患者を助けるために、より多くのことを知ることができるだろう」とSharon医師は述べた。
妊娠中および授乳中の患者の臨床試験参加について、6月16日から17日の米国科学・工学・医学アカデミーが主催するワークショップで議論される予定である。この会議では、妊娠中および授乳中の薬剤の使用に関する知識のギャップや、妊娠中または授乳中の患者を臨床試験に含めるための障害や機会に焦点をあてることになるだろう。
一方、Leticia Ramos-Mateo氏は、自分の体験談ががんと診断された他の妊婦の助けになることを望んでいる。彼女は、Evens医師の次回の診察に息子を連れて行く予定である。
「コロナ禍の制限のため、Evens医師は息子に会ったことがありません。でもすぐに会えるでしょう。とても素晴らしいことです」とLeticia Ramos-Mateo氏は述べた。
妊婦が胎児の一般的な染色体異常を検出するために行う非侵襲的出生前検査(NIPT)は、母親ががんである可能性を示唆することもある。まれではあるが、非侵襲的出生前検査では、胎児の染色体異常ではなく、母親の未診断のがんによる染色体異常が検出されたことがあった。
NCIがん研究センター女性悪性腫瘍部門の研究者であるChristina Annunziata医学博士が、このようながんの生物学についてより詳しく知るための研究を主導している。「私たちが答えようとしている大きな疑問は、出生前スクリーニング検査で染色体異常がみつかったが、胎児の染色体は正常である場合のがんの発生頻度はどの程度かということです」とAnnunziata氏は述べた。
参加人数はまだ少ないが、パイロット研究に登録された女性の多くががんであった、と同氏は続けた。同氏のチームは、合計100人を登録する予定である。
日本語記事監修 :斎藤千恵子(薬学・毒性学/ロズウェルパ―クがん研究所 病理学部)
翻訳担当者 白鳥理枝
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